理解される努力




理解、「してもらう」努力でも「させる」努力でもいいんだけど。

今日、玄関のチャイムが鳴って何かと思ったら(心当たりのないときは大抵何かの勧誘なので警戒する)、ボランティア団体に所属しているという青年だった。障害者の人たちが作ったものを買ってほしいという。胸にはその団体の名札もついてるし、ニュースレターのようなのも持ってるけど、ものの値段を聞いたら「2千円です」。「資料だけ読ませていただきます」と、帰ってもらった。聞いたことのない団体だったし、判断材料もないのにいきなり2千円も払えないよ。

青年は本物のボランティアかもしれないし、そうではないかもしれない。団体は本当に存在するかもしれないけど、そうではないかもしれない。意義のある活動をしているかもしれないけど、そうではないかもしれない。(巧妙に慈善団体を装ったカルト集団なんてのは絶対ありそうだし。こういう「ちょっと疑ってみる」という意識がなければすぐに世の中に山とある悪徳商法にひっかかること間違いなし。情報が溢れる時代にはその取捨選択の能力はぜったい必要だと思う。おっと話がそれた。)

仮に、青年が本当に健全なボランティアだったとする。彼のことをこんなふうに疑う、理解してあげられない私はひどい人だろうか?正しいことをしているから理解される努力なんてしなくてもいい、とは私は思わない。

これをシングルマザーとかレズビアンとか、他のマイノリティに置き換えてみると。自分がそうであると人に告げたとき、相手が拒否反応を示したとしても、イコールその相手が理解の無い差別的な人だと決めつけるのは早いかもしれない。みんながすべてのマイノリティに詳しいわけないんだから。相手がはじめに戸惑うことを、許してあげたい、と私は思う。そして理解を得るためには、やっぱりこちらから働きかけをしなければならない(説明するとか、本や資料を見せるとか、何よりこれがありのままの自分なのだとアピールすること)。何もしなくても理解してもらえるのが当たり前、なわけがない。

ここでいつもの私のマイノリティ論、『世間=自分』に戻る。もしも自分の中にその(自分の属する)マイノリティへのネガティブなイメージがあるならば、まず自分を説得するのが先決ですよ。






人に「いいんだよ」と言ってもらうのを待っていても
幸せにはなれないのだ!!

2001/5/27


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